天才のすることは知らんけど、おれは普通の人やから
「3歳のとき、須磨の音楽教室に習いに行ったのが最初。自分の子どもがピアノ弾けるようになるっていうんが、かあちゃんの夢やった。」
彼はとっても小さい頃から音楽少年だったのだ。
「3歳だったから、気が付いたらそこにいた感じやね。それ以来、場所は変われど一週間に一回は、どこかのピアノ教室に通ってた。ものすごく練習が嫌いだったからさっぱり上手くはならなかったけど…、レッスンの当日、それも1時間前くらいから練習始めるの(笑)。
せやけど、不思議とやめたいと思ったことはない…なんでやろね。物心つく前に始めたことって、疑問も持たないで続いてまうもうんなんかもな。」
ピアノが大好きな音楽少年が将来、音楽の道を志す。そんなイメージからはかけ離れている濱田少年。そんな彼が、どうして作曲という行動を起こすことになったのか。
「一言ではいえないけれど、‘やりたいな’と思ってやることと、‘できるな’と思ってやることってあると思うねん。例えば、就職する人でも‘この仕事に就きたい’って始める人と、‘この仕事ならできる’って始める人がいると思う。おれの場合、作曲はどっちかっていうと‘できるな’やった。とりあえず思いついた音を、恐れることなくピアノで弾けたって、やっぱり大きいやん。
だからね、物心つく前からピアノを習わせてくれた事、母にはすごく感謝してる。何でもそうだろうけど、何かを実現するには下積みって必ず必要だから。俺がとってもラッキーだったのは、高校生の時点である程度の下積みは終わってたっていう事。そんな中でくらっシック以外の音楽と出逢って。自分に曲って作れないのかなって自然に思った。で、‘できるんちゃうん’って思った。それから割とすぐに、自分が考えうる実現可能な夢の‘最大値’っていうか、‘一番遠い目標’って作曲家なのかなぁって気がして。プロ野球選手になろうとか宇宙飛行士になろうとかちょっと想像もつかないことだったけど、一番遠くに、だけどちゃんと見える気がしたんだよね。だから、目指そうって。すぐなれると思ったし。まったく、とんでもなかったけど。中学時代に考えてたことだから許して(笑)。」
そして彼は、ピアノを始めた頃と同じように、自然と目の前の道を歩いていく。
「高校2年の頃から、ちゃんと機材を揃えて曲作りを始めるようになって。むちゃくちゃにバイトしまくって買った。必要な機材については中学時代に調べまくったんだけど、そこそこやろうとしたら最低限でも75万円いるってことになってね。もう1年生の自分の自由時間は全部そこに費やしたんじゃないかな。それでなんとなくプロっぽい音になって、そしたら次はプロだってなるよね。次のステップを求めていけば、自然にそうなっていった。」
彼は高校を卒業し、プロミュージシャンになるために上京。生活のためのシステムエンジニアの仕事と並行して、作曲活動を続けた。そんなふうに話を聞いていると、とても順調に進み続けているように思える。
「東京に出てきたはいいけど、デビューが決まるまではそこからがとても大変だった。
‘本当の厳しさ’ってものに気付くまでにすごく時間かかったよ。自分がそれなりにできてる気持ちになってるからね。‘何で俺の作る曲の良さをわかってくれへんのか’って思って。多分、今ライブハウスでプロを目指して活動してるアマチュアの人達も、きっと‘俺はできてる’と思ってると思う。
でも、ある日気付くんやね。‘判ってくれてへんちゃうわ。自分が判ってもらえるものを創ってないんや’って。」
我に返った。という感覚だろうか。何故、それに気が付くことができたのか。
「一個はね、はじめてレコード会社から声かかった時。それ20歳。で、‘こういうテーマで新曲を書いてきて’って言われて、よーしって息巻いて書こうとした瞬間、途端に書かれへんようになったの。
ちょっと書き始めたら、どれもこれも‘だれだれ風’なのよ。もう、ほんまに愕然として。物真似でプロになんてなれないだろうし、アーティストなんかじゃないし、‘自分のオリジナリティって何なんやろ、俺にしか書かれへん曲ってなんなんやろ。そんなことも今まで真面目に考えてなかったんや’って、リアルに公園で頭抱えたよ(笑)。自分の無力を始めて思い知った。結局、そのレコード会社からのデビュー話も当然ダメになって。
そっから‘だれだれ風’から抜け出すために、とにかく沢山曲を書いた。手探りで前へ進むようにして自分の曲を探していった。いろんなことにぶつかりながら、いろんな人に出会いながら。プロになるチャンスもいっぱいあったし、でも、いつも今ひとつ煮え切らない感じだった。システムエンジニアの仕事も面白くなってたしさ。
気がついたら、いつのまにか25歳に達してた。自分が東京に出てくるときに、音楽活動のタイムリミットとして決めていた年齢。このままじゃすごく中途半端だから、もう一度だけ徹底的にやりたい。徹底的に自分の納得する曲を書きたいと思ったんだよね。この曲で自分はもう最後なんだって思ってもいい曲を。そう思ったらさ、また書けなくなった。それはつまり、今までは少なくとも全力じゃなかったってことなんだよね。常に全力のつもりでやってたよ。でも、‘おれは本当にもう辞めるかもしれない’って思ったら、一ヶ月間も納得いくものが書けなかった。最後の曲のために仕事を辞めて作っていたから、24時間使いきって。1ヶ月を31日使いきってよ。ようやくできあがった曲は、それまでの自分の作品とは違うものだった。ここから自分の中でようやく今の俺ができた気がする。やっと商品として通用する曲を創れる作曲家になれた。」
‘辞める’という覚悟が、真の意味で全力を出させた。そして、それが彼を目覚めさせた。
そして丁度この頃、彼はあん朱と出逢い、ふたりは今に続く道を歩みだす。
「あん朱とarpを始めてから、デビューを前提として活動したレーベルがあって。そこで1年半くらいの間、新曲を沢山書いた。沢山いい曲はできたんだけど、つまんないことでそこでのデビューはだめになっちゃって。あのとき、あん朱はほとんどあきらめかけていたけど。でも、‘だめなわけ無い、いい曲はこんなにあるわけやから’って。強いよね、客観的に見て自分で素直に素晴らしいと思える曲が、50曲以上あったんだから。やっぱりすぐに新しいレーベルでのデビューが決まった。」
様々な苦難を乗り越え、現在に到る濱田。そして、arp。
今も常に新曲を生み出し続けている彼。曲を創ることに心がけていることを聞くと、こんなことを話してくれた。
「‘作った’って言うより、‘出来ちゃった’。っていう曲を待つことかな。全力で、出来た。また次の曲を全力を使って、出来た。っていうのを繰り返していると、ふと、出来ちゃった曲が現れる。その感じが大事だよね。
おれは、‘新しいね’って言われる曲を書くつもりはなくてね。その代わり、10年経っても20年経っても古くならない曲を書きたい。自分の創ったCDが、千年後に発掘されて、その世界に生きる人が聞いても、‘いい曲だね’って思ってもらえるものでありたい。
そのためには、テクニックはもちろん必要なんだけど、いかに中学時代の精神に戻れるかってのは大事なんじゃないかなって気がしてる。あの頃って理屈じゃないもんね。好きな音楽が、好き。で、死ぬほど好きっていう。あの頃の自分にまで届く曲を書けてるかどうかっていうのは、自分の中での基準かな。」
彼が子どもの頃に受けた衝撃。そしてそれを今度は自分で生み出し、社会に発信している。arpを慕う多くのファンたちが、そこからどのような刺激を受けているかはわからないが、事実、人はarpの曲を聴いて、涙を流す。
「ほんとにそうだとしたら、やっぱりしんどい事しているからちゃう?結局はそういうことなんちゃうかな。天才のすることは知らんけど、おれは普通の人やから。人より頑張るしかないしかない。そこに感動してくれる人がおるんちゃうかな。」
音楽にまじめで、誠実に生きている。僕の素直な感想を述べると、彼はそれを否定した。
「いやぁ、音楽にっていうか、ミュージシャンで結果出すって決めたんやから、自分の人生納得したいんよ。認められることなく辞める時が来たら‘おれは才能無かったんだ’って笑い飛ばしたいし。徹底的にやってだめだったら、‘才能無かった’って自分で言えると思うねん。中途半端やったら、きっと言い訳する。て、勿論成功してるほうがいいけど(笑)。
ただ、そういうふうに生きてきた人生でなかったら、若いやつらに顔向けできない。大人として。そのためだよ。」
彼は、音楽の中に生きていて、そこで死のうとしていなかった。
「ただ、いい曲を創ろうとしてる。必死に曲を創っていたら、その様を見てくれてる人がいたり、聴いてくれている人がいて、その人のきっかけになったりしたら嬉しい。でも、本当に俺が人を手助けできるようになるのは、まだまだ先で。ちゃんと全うした後だと思ってるから。そういう意味では、曲を創るということが、今すぐ誰かを喜ばせるためではないかな。結果的にそうなってるものもあるのかもしれないけど、誰かのためにいい曲は創れない。それをやろうとするとしたらある意味ですごく傲慢だと思うな。人を感動させようなんて、人間技じゃないよ。例えば、あなただって‘次の一文で必ず人を感動させてください’って言われたら、書けなくなっちゃうよね。命がけで創ったものが、人に届くことがあるだけなんだよ。」
謙虚だ。また素直に感想を述べると、またそれを彼は否定した。
「いや、たぶん事実はそういうことってだけだよ。」
つくづく、謙虚だと思った。
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